Masuk午後三時。社内の大きな会議室は、緊張感に包まれていた。
朱里と嵩は、来週に控えた大型クライアント向けの企画提案を、社内でリハーサルする役を任されていた。(落ち着け……今日は大事なチャンスなんだから)朱里は手元の資料を握りしめる。「中谷さん、準備は?」隣に座る嵩の声が、不思議と安心感を与えてくれる。「はい……大丈夫です」小さくうなずくと、嵩は目だけで「信じてるよ」と伝えるように微笑んだ。プレゼンが始まると、二人は驚くほど息が合った。朱里がデータを説明すれば、嵩が具体例を補足し、嵩が方針を示せば、朱里が数字で裏付ける。まるで、背中を預け合って戦っているような感覚。朱里はふと、自分の声がいつもより自然に出ていることに気付いた。発表が終玄関の照明がふっと灯り、朱里は濡れた傘を軽く振って水滴を落とすと、いつものように玄関脇の傘立てに差し込んだ。コートも丁寧にハンガーに掛ける。 仕事で疲れ切った夜でも、部屋を煩雑にしたくない──それが朱里のささやかなこだわりだった。 「ただいま……」 小さくつぶやきながらリビングに足を踏み入れると、室内は静まり返っている。エアコンの送風音だけが、残った湿気を押し出すように唸っていた。 ソファに腰を下ろし、朱里は深い息を吐く。 今日のプレゼン……あの場面までは完璧だった。 瑠奈の“補足”が入るまでは。 彼女の後輩であり、最大のライバル。 そのひと言で、空気が変わった瞬間を思い返すと、胸がざわつく。 ──なんであんな言い方をするのよ、瑠奈。 悔しさと、焦りと、負けたくない気持ち。 混ざり合った感情が、胃の奥で重く沈んでいた。 そのとき、スマートフォンが震えた。 画面に表示された名前を見て、朱里は思わず息をのむ。 「平田嵩」 今日のプレゼンで、最も評価してほしかった相手。 でも、彼が瑠奈の意見に頷いたのも事実だ。 通話か、メッセージか──どちらでもない。 通知は “未読メール” を示していた。 朱里は指先でタップした。《傘、急ぎじゃないので気にせず使ってください。今日は付き合ってくれてありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね》「……っ」 また心臓が騒ぎだす。(こんな優しい言い
美鈴たちが角を曲がって消えていくのを見送った瞬間、 雨上がりの道が、やっと静けさを取り戻した。 朱里は胸の奥で、ほわっと何かが溶けるような感覚がした。(……二人きり。ほんとに、二人きり……) さっきまでのドタバタが嘘みたいに、足音だけが並んで響く。「さっき……すみませんでした」 朱里は思わず切り出してしまう。「なんか……巻き込んじゃって」 嵩は、歩くスピードを朱里に合わせるようにゆるめた。「巻き込んだのは僕のほうですよ。誘ったのは僕なので」「でも、その……瑠奈ちゃんもいて……」「賑やかで良かったですけどね」「いや、賑やかすぎましたよ……!」 言った瞬間、朱里の声が思ったより大きくて、 自分で驚く。 嵩がふっと笑った。「中谷さんって、意外と感情出ますよね」「で、出ませんよ……!?」「いえ、出てます」 朱里は耳まで赤くなる。(や、やめて……そんなやさしい顔で言われたら……!) なんで“やさしい顔”って自覚してるんですか、この人は。 嵩はふと立ち止まり、ポケットからハンカチを取り出した。「……ここ、濡れてますよ」 そう言って、朱里の肩にそっと触れ── 雨のしずくを拭ってくれた。「っ……!」(近……っ!!) 一瞬で心臓が跳ねる。
「……あれ?中谷さん、望月さん、それに……平田さんも?」 角を曲がったところに、 仕事帰りの 田中美鈴 が立っていた。 (……なんでこうも続けざまに……!?) 美鈴は事情を察したのか、にたりと口角を上げた。 「ほぉ……なるほどね?」 「な、なるほどじゃないです!!」 朱里は両手をぶんぶん振って否定するが── もはや誰も信じていない顔だった。 (どうして……ほんとにどうして……こうなるの……?) 朱里の心の叫びは、秋の夜空に吸い込まれていった。 瑠奈と美鈴が合流してしまった帰り道。 雨上がりの夜気はひんやりしているのに、朱里の顔は火照りっぱなしだった。 (な、なんでこうなるの……!?せっかく二人で歩くはずだったのに……!) 歩く列は、 前に嵩と朱里、 後ろに瑠奈と美鈴という奇妙な隊列。 その後ろ組が──やかましい。 「で〜?お二人はいつからの仲なんですかぁ?」 「いやいや、瑠奈ちゃん、圧がすごいわよ。逃げ道ふさぐタイプじゃん」 「逃がす気ないんで」 「こわっ!?笑」 美鈴のツッコミが軽快に入る。 (美鈴……助けて……!)
夜風がまだ少しだけ湿っていて、雨上がりの匂いが残っている。 三人で歩く帰り道は、どうしてこんなにも“気まずさ”がよく響くのだろう。「いや〜、ほんと偶然でしたね!」 瑠奈はテンション高めに、コンビニ袋をぶらぶらさせながら言った。「うん、まあ……偶然だね」 嵩さんは苦笑い。ただ、歩く速度は自然と私に合わせてくれている気がする。 なのに。「中谷先輩、歩くのちょっと早くなってません?」 瑠奈が笑って言う。「えっ!? そ、そんなことない!! むしろ大嫌いだから早歩きになってるだけ……」 また言った。 また言っちゃった。 大嫌い……本当は全然そんなことないのに。「大嫌いって言いながら歩幅合わせてくれてるの、可愛いですよね」 瑠奈がにやり。「はぁ!? 可愛いとか言わないで! ほんと大嫌い!!」「……中谷さん」 嵩さんが横で、困ったように、でもどこか優しい声で呼ぶ。「な、なんですか」「それ、照れてるときの言い方だよね?」 ──死ぬ。 いや、今すぐ地面に吸い込まれて消えたい。「ち、ちが……! 違うもん……!」 声が裏返って、さらに恥ずかしい。 瑠奈がくすくす笑いながら言う。「平田さん、絶対わざと言ってますよね、それ」「別に、わざとじゃないよ」 と言いながら、嵩さんは少し視線を落とす。 その横顔が、なんかずるいくらい
「じゃあ、行きましょう」 嵩さんがゆっくり歩き出す。その一歩一歩に合わせるように、私も横に並んだ。雨上がりの道路は街灯をぼんやり映していて、なんとなくいい雰囲気だ──なんて思った瞬間。「おっ、平田さんと中谷先輩だ!」 背後から明るい声。 振り向くと、コンビニの袋をぶら下げた瑠奈が立っていた。「あっ、望月さん──」 と言いかけた途端。「ちょっと待ってください〜〜っ!」 瑠奈は、私たちのもとへ小走りで駆け寄ってきた。コンビニ袋の中でお惣菜パックがカタカタ揺れている。 な、なんか追いかけてきた感じになってる……!「よかった、追いついたぁ……! え、えへへ。偶然ですね! お二人とも帰りですか?」「う、うん。まあ……そうだね」 嵩さんは、やや困ったように笑う。 よし、私の心臓、落ち着け。 こういうときに限って、脈が爆速で暴れだすんだよね。「あの、もしよければ……一緒に帰ってもいいですか?」 瑠奈は期待に満ちた笑顔を向けてきた。 で、出た……その顔……断れないやつ……!「もちろん。平田さん、いいですよね?」 瑠奈が当然のように言う。「う、うん。大丈夫だよ」 嵩さんがそう言った瞬間、私の“少しだけ特別だった帰り道”は、ふわっと霧散した。 でも。「中谷先輩、嬉しそうですね?」 瑠奈がにやりと笑ってのぞき込んでくる。
「……はい。行きます」 朱里がそう答えた瞬間、嵩はふっと柔らかく笑った。 オフィスの窓の外は、さっきまでの雨が嘘のように静まり返り、夕暮れの光が街を淡く染めていた。「じゃあ、片付けたら行きましょう」「はい……」 朱里は胸の奥がざわざわして、いつものようにカバンを閉じるだけなのに手がぎこちない。 “少し歩きませんか”──ただそれだけのことなのに。(どうしよう……なんでこんなに緊張してるの) 同期や友達の誘いなら、こんなに動揺しないのに。■ オフィスのエレベーター前 「お待たせしました」と朱里が駆け寄ると、嵩はスマホをポケットに戻した。「急がなくていいのに。……行きましょうか」 並んでエレベーターに乗ると、朱里は自然と端に寄ってしまう。 視界に映るのは、彼のワイシャツの袖、仕草、横顔── どれも職場で何度も見ているはずなのに、なぜか意識してしまう。(落ち着いて……私。何もない。ただ歩くだけ……) チーン、と軽い音がして1階に着く。■ ビルの外 夕方の風は少しだけ冷たく、雨上がりの匂いがほのかに残っていた。「ほんとに、雨上がってよかったですね」「そうですね。……濡れずに済んで良かったです」 嵩の歩幅は少しゆっくりで、朱里のペースに合わせてくれている。 それに気づいて余計に胸が熱くなる







